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牛田駅途中下車-8 深仁厚澤

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広島市の近代水道布設の立役者が伊藤博文さん、児玉源太郎さんです。

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牛田駅途中下車-7 不舎昼夜

「不舎昼夜(ふしゃちゅうや)」昼夜を問わずという意味です。

私たちのライフラインである水道は24時間休むことなく水を送り続けます。

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臨時広島軍用水道布設部長 児玉源太郎と刻まれています。この石額は旧牛田取水門に在った物がここに移設し保存されています。

広島市の水道は天皇の勅令で軍用の水道として建設が進められました。こういったケースは当時かなり異例でした。

児玉源太郎さんは、陸軍大将 山口県周南市生まれ 日露戦争では満州軍総司令部総参謀長広島ブログ

本日からNHKで放送がスタートいたしますドラマ「坂の上の雲」にも登場します。高橋英樹さんが演じられます。これも楽しみです。

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牛田駅途中下車-6 送水喞筒室 

送水喞筒室

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喞筒(そくとう)と読みます。喞とは小さな声やささやくような音のことです。そんな音のする筒、ポンプのことです。揚水機とでも表さないあたりが明治人の言葉のセンスでしょうか。

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現在は広島市水道資料館となってます。

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牛田駅途中下車-5 水道資料館別館

水道資料館別館、正式には牛田水源地量水室。

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此処は被爆建物で戦火を潜り抜けてきました。写真ではわかりずらいですが、コーナーは美しい曲線を描いています。

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牛田駅途中下車-4 100年間水を送り続ける

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明治30年の文字が見えます。1897年、今から112年前のことです。

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広島駅近くにある猿猴(えんこう)橋の旧配水管で原爆にも耐えて、2007年まで100年以上広島市中心部に水を送り続けてきました。

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牛田駅途中下車-3 広島の水道へのいざない

広島市

牛田浄水場旧援速濾過(ろか)池及び濾過(ろか)井の上屋

この施設は明治に完成した牛田浄水場の緩速濾過池と第二期水道拡張事業で設置された濾過井の上屋のうちの一つです。

濾過池の壁面は花崗岩の切石で濾過井の上屋はレンガ積み(短い煉瓦と長い煉瓦を縦に交互に並べるイギリス積みを採用)広島市水道の創設当時の姿をとどめてます。

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太田川の三角州に形成された水の都広島市ですが、井戸水には海水が混じり飲料水の確保には苦労したようです。当時人々の多くは川の水をそのまま飲んでいました。それによって伝染病の原因となり、近代水道の整備の必要にせまられていした。

デルタ地帯(三角洲広島ブログ)に生まれた街・広島は、井戸を掘っても塩水が上がるため、良質な地下水が少なく、人々のほとんどは川の水をそのまま飲み水にしていました。
しかし、明治時代になるとこの水が伝染病の原因となり、コレラや赤痢が発生して猛威をふるいました。
 また、広島藩の時代から、何度も大火災が起こり、人々は水に対して大変な苦労をしていました。

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牛田駅途中下車-2 旧牛田浄水場

かつての牛田浄水場の跡地には、広島市のスポーツ施設、「広島ビッグウェーブ」が建設されました。

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ビッグウェーブの裏手奥にはかつての浄水場の遺構が残されてます。追々ご紹介していきます。広島ブログ

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牛田駅途中下車-1 スタート

牛田駅途中下車スタート

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まずは駅前のガイドマップをチェックします。この中には当ブログで紹介したところが何箇所かございます。全部言えたあなたは「ゆんたくエクスプレス通」の称号を授与いたします。

 アストラムライン牛田(うした)駅下車

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広島ブログ

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ドイツの風

広島との姉妹都市ドイツ、ハノーバー市から送られた路面電車が広島電鉄8号線(横川ー江波間)、日祝日限定(来年3月まで)にて運行されてます。広島ブログ

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横川駅付近にて JR西日本山陽本線、可部線横川駅下車

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47都道府県

日本は47都道府県の行政区分の歴史はそれまでの藩は廃止する廃藩置県が施行されたことにさかのぼります。

1使(現在の北海道)3府302県が置かれました。その時は藩の名前をそのまま使用したために県名と県庁所在地は同じでした。

ところが、同年11月に1使72県に統合する際、県名と県庁所在地が異なる県が出てきました。その後統廃合がくりかえされ現在の区分になっております。かつて社会科の授業で、県庁所在地を暗記するのに苦労された方々は多くおられかなと思います。

 戊辰戦争をはじめとする明治維新の際には、新政府軍に味方する旧藩、抵抗する旧藩とに分かれました。

 県庁所在地と県名が異なるところの多くは新政府に抵抗した旧藩が多いようです。

たとえば、松江、松山、高松、仙台、盛岡等です。

 県庁所在地の歴史はこんなところにもございました

山口県の県庁所在地は山口市です。人口は下関市よりも少ないですが、旧藩庁があったことなどからこの地に落ち着いたようです。

JR西日本山口線山口駅下車

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カラオケデビュー

皆さんのカラオケデビュー曲はなんですか?私は岬めぐりです。デビューしたのは高校生の修学旅行先の長野県のとある民宿です。当時はカラオケBOXはありませんでした。確かカセットのでかいやつを入れてやるかなり旧式な物だったと記憶してます。演歌や民謡系が多く、知っている曲がこれしかなかったのが選択の理由のようです。当時はセンチメンタルジャーニー的な意味合いのこの曲の歌詞は理解せずに歌ったような気がします。それ以降この唄はカラオケでは歌ってませんが大好きな曲の一つです。岬や灯台を見るたびに思わず口ずさみたくなるのは私だけでしょうか?

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岬めぐりとは関係ない飯田線の風景やかつての特急の風景がでてきます。

角島灯台 JR西日本山陰本線特牛駅(こっとい)駅下車

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原点回帰 新たな旅立ちへ

11月に入ってから、ブログの更新間隔がかなり開いております。ネタ集めの時間が無いことにより極度の自己嫌悪に陥ってます。以前でしたらそれなりにネタを探して対応してきましたが、もう限界ですね。書きたい記事(鉄道関連)を間隔が開いても書くようにしたいです。P1000120

新幹線開業までは長門一宮駅でした。今では地元では「しんしも」と呼ばれ、下関市のベッドタウンとしての役割をはたしてます。

 人口では下回る山口市の新山口駅の方がのぞみも停車し、山口の陸の玄関の座を譲っています。

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旧秋田商会

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山口県へ

毛利敬親さんが山口に新たな藩庁を築いて移住。以後、長州藩(萩藩)は「山口藩」と称される

藩庁門跡

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そうせい候

時代劇などで、殿様に家臣が進言をしたときに「よきに計らえ」等という台詞を聞くことがよくありますね。殿様は決断しているようで、家臣に丸投げした状態です。

長州藩14代藩主 毛利敬親さんは幕末の激動時に活躍したにもかかわらずそうせい侯」(常に「うん、そうせい」と返答していたため)と呼ばれていました。

このことを取り上げたブログを幾つか拝見いたしましたが、否定的な意見が多いようです。現にこうしてここ山口市に銅像がございますし、顕彰碑も県内に何箇所かあるそうです。

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高杉晋作さんらといった若い志士たちが歴史上では注目を浴びてますが、藩主敬親公のこともしらべてみようかと思います。

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西の京への道しるべ-4

山口県の県庁所在地、山口市は西ノ京とよばれております。その歴史は室町時代までさかのぼります。応仁の乱で荒廃した京都より多くの貴族や文化人が地方へと移って行きました。そのひとつが大内氏がおさめていた山口でした。

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画聖雪舟さんもこの地を訪れています。大内氏の庇護をうけております。

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フランシスコザビエルさんは大内義隆さんと1550年に面会しました。この時代に京都風の独自の大内文化が生まれました。

 

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